あした思い出すよう

あさってもその次も

アウトプットは何でもいいからやるといいかと

アウトプットといってもさまざまである。
この媒体であるブログでもよし、紙に書いてもよし、人に何かしら伝えてもよしである。
そんなアウトプットは何でもいいからやるといいのでは、という自身への戒め。

 

アウトプットできるということは大なり小なりそこに書かれていること書こうとしていることに対して説明ができるということである。
説明ができないとそもそも何もそれらに対して書くことや伝えることが無い。
いっそ「ヤバい」でもいいからアウトプットしたほうが、何もアウトプットしないよりは良いことなのでは、と。

 

人は忘れることができるなんとやらとはよくいったもので、忘れることができるからツライこともどうたらこうたら…なんとやらである。忘れた。

ただ往々にして大事なことを忘れたり、全体や大局は憶えているけれど細かなニュアンスだったり、そのとき何を思っていたかだったりを数日経ったら忘れてしまう。
そんなときはとりあえず「書く」というアウトプットをしたらいいのでは。
決して頑張らなくていい、ただ一行ただ一言でもいいからアウトプットしておくといい。

 

メモを見返す見返さないにかかわらず、「とりあえず書く」をしたら書いたことは憶えているかもしれない。書いたことを憶えていたらまた見返せばいい。色々忘れたけど何かしらその部分を「書いた」記憶が少しでもあればPCなりスマホなりで調べようとできるかもしれない。
ネットの普及で調べることへの手段は増える一方であるが、そもそも調べることを忘れては何も調べられないのである。

 

『忙しいとか、魔の呪文「明日でいいや」など色々なことが起こる日々の中で、何でもいいからアウトプットする』というのは習慣として自然にできるとそれが一番いい。
個人的には何か一冊家用のメモとか(普通紙の塊でもいい)を目のとどく範囲にまずは置くのがよかった。書くことへの敷居をひたすらさげて、各内容も「ひとことでいい」とこちらの敷居もさげておく。

 

数ヶ月間何かなんやらどんどん時間が過ぎて、自身が手に入れたいはずの分野の情報を見逃していたことがとてもショッキングだった。
「アウトプットしなくてもインプットしておけば、インプットのほうは何とかなるか」とはならないことを痛感した。
早速この「痛感した」ことを書いた。
とにもかくにも、ここに書く書かないにしろ何かしらアウトプットしたらそれはインプットにもつながると考えておかないといけない。
あっという間に今この日々が過去になるというのに、考えややったこと等々が残らないままというのはおそろしいことだなと。

 

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