あした思い出すよう

あさってもその次も

相互AI時代の深淵

相互AI時代の深淵と、1周回って気づくこと

​自分がAIを使って文章を作っている時、ふと思う。

「……もしかして、相手もAIを使って文章を作っているんじゃないか?」と。

​ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている」ではないでけれど、今やそんな「大AI時代」が個人レベルでも当たり前に起きている気がする。

 

​たとえば、家のちょっとした修理を業者にネットで頼むとき。

こちらが送ったメッセージに対して、相手から妙に丁寧で、ボリュームのある返信がすぐに返ってきたりする。

​そんな時、こちらはそのメッセージをわざわざコピペする手間すら省いて、画面をスクリプトショット。今までの会話の流れがわかるように数枚のスクショをAIに放り込み、

「これで2、3行の返信文を作って」

と依頼する。すると、一瞬で過不足のない文章がでてくる。

​テキストエディタにそれを貼り付け、適度に切り貼りして「送信」することができる。

 

​でも、これは自分ができるということは、当然「相手も同じことをしている可能性が十分にある」ということ。

お互いにAIが生成したテキストを、AIに読ませて、またAIで返している。個人レベルでこれなのだから、ビジネスの現場なんて、もうどうしようもない状態(いい意味でも悪い意味でも)になっているんだろうな、と勝手に思っている。

 

​こうなってくると、1周回って「実際に会って話した方が、相手との信頼関係が上がるんじゃないか」なんて思ったりもする。

​じゃあ、Web会議ならどうなんだ?という話になるけれど、Web会議だって怪しいもので、画面越しでは、相手が手元で何をしているかまでは見えない。

 

​こちらが話した内容をリアルタイムでAIに文字起こしさせ、裏でカンペを作っているかもしれない。それどころか、カメラに映っていない画面の外側に、実は決定権を持つ役員がいて大画面でじっと見ている……なんてことも十分にありえる。

​そこに至るまでのあらゆるプロセスで、お互いにAIを使い倒していることを前提に動かなければいけない。

 

​個人レベルでも、会社レベルでも、なんだか本当に世知辛い世の中になったな、としみじみ感じる。

そんなこんな。

教員というのは、そもそも恨みをかいやすい職種だと思う。

​教員というのは、そもそも恨みを買いやすい職種だと思う。

​「教員のなり手不足」という言葉が出て久しいけれど、そもそも教員というのは、生徒サイドから恨みを買いやすい職種ではないだろうか。

​誰しもが「あの時の先生のあれは、なんか嫌だったな」という記憶を、1つや2つは持っていると思う。

 

​それは今も昔も変わらない。

昭和の時代だったら「しない(竹刀)で殴られた」「叩かれた」、いわゆる「廊下に立たされた」といったフィジカルな罰。

今の時代はそうした身体的なものは減ったかもしれないが、言葉からくるメンタル的なものは、形を変えて今も昔も存在し続けてそう。

 

​結局、それはずっと、人と人が関わる中で繰り返されてきたことのように思う。

​SNS時代が加速させた「理不尽の可視化とリアルタイム共有」

 

​ただ、昔と決定的に違うのは、今の「インターネット時代」「SNS時代」という環境。

この発達が、教員のなり手不足に直結しているような気がしてならない。

​いわゆる生徒サイドでの共有が、圧倒的な「リアルタイム性」を増した。

 

​「こんな風に言われた、あんなこと言ってた」

​「こういう時にこんなこと言われて最悪だった」

 

​そういった愚痴や不満のリアルタイム共有が、ネットを介して即座に行われる。なんなら、それがデジタルデータとして生徒たちのコミュニティの中でずっと残り続ける。そんな時代に、私たちはすでに突入している。

​そして、その様子を見ている生徒自身も、どこかで「教員って大変だな、割に合わないな」と思っていそうに思う。

​そんな環境の中で、進路選択や大学を卒業した後のキャリアを考えるとき、

「教員はこう思われやすい職場だよな」「恨まれやすい職だよな」

と気づいた学生たちが、あえてその道を選びにくくなるのは当然の流れかもしれない。

 

​私自身も、思い返せば、

「あの教員が言っていたのは単なるポジショントーク(その場しのぎの言い訳)たったな……」

という記憶はある。

​数年経ってから「やっぱりあの先生は嫌だった」と恨まれるようなことは、往々にしてあると思う。

 

​人と人との関係である以上、

「あの教員、本当に嫌だったな」

「元教員って、定年後もふんぞり返ってるのかな? 今ものんきに年金をもらっているのかな? なんだか嫌だな」

 

と感じるような教員の1人や2人は、皆さんの中にも心当たりがあるのではないだろうか。

​「働き方改革」だけでは救えない、この職種の難しさ。

​世間では「働き方改革が……」と言われて久しい。

けれど、こうした「人の感情」や「過去の恨み」といった、制度だけでは触れようのない、コントロールできない部分こそが大きなネックになっている気はする。

​そこを鑑みないで「教員のなり手不足だ」と言ったところで、なかなか新しく飛び乗る人も少ないんじゃないかな、と勝手に思っている次第。

​ただ、まあ、公の人が「教員は恨まれやすい職だよね」なんて言い方をするわけにもいかず、という面もある。

​本当に、難しい問題ですよね。

 

と思った次第。

メディアの「当たり障りのなさ」と、コンプライアンスの先にあるもの

メディアの「当たり障りのなさ」と、コンプライアンスの先にあるもの

 

​コンプライアンスで固めたものというのは、どうも平坦というか、当たり障りがないものになってしまう。それは今の「お決まり」なのかもしれない。

 

​具体例がテレビだろうとは思う。

「子供を見て」とか「こんなものをテレビで放送するなんて」と言い出しても、本当にきりががない。

本当にテレビを見てそこまで影響を与えられるとするのであれば、「過激だった」とやらの昭和のテレビを見た人たちは、全員過激な人になるのかということになってしまう。

​決してそうではないと思うけれど。

 

​平成の時代には「昭和の頃のテレビは過激だった」と言い、今の令和になってみれば「平成の時はまだテレビに個性があった」と言う。

 

多分これは、どんなに時代が過ぎてもそういう風になっていくだろう。

​テレビに限らず、インターネット等でもそういったことが今後起こるんじゃないかな、というところはある。

 

インターネットの場合は、なんだか過度にビジネスと結びついてしまって、個人の純粋なブログに「純粋な何か」みたいなものは見つけにくくなって久しいけれど。

​テレビにしろインターネットにしろ、過去のそういったものを(自由な空気感として)見て楽しんだ世代が、「テレビの舞台に立ってみようか」と思えないような環境であれば、もうそのまま衰退していくんじゃないかなという気がしないでもない。

 

​私も普段はそんなにテレビを見るわけでもないけれど、かつてあれだけインターネットを目の敵にしていた印象を私は持っていた。

そのテレビが、今や「ネットで流行ってる何々」とか「ネットでバズってる何々」、「何万回再生の何々」とか……だいぶ光景が変わったなと、そんな気はする。

「あれだけ目の敵にしていたのに」なんて思ったりする自分がいる。

 

​その時々で、放送する側も報道する場もだいぶ変わっていったりするのだから、今の一時点で過去の何々と比較して影響を危惧する、インターネットを問題視する、コンプライアンスがどうとかみたいなことをやり続けた先には……。

​かつての面白さみたいなものは、なかなか見当たらなくなってくるんじゃないかなとは思う。

 

そんなこんな。

 

 

AIとの「壁打ち」がもたらす効果

AIとの「壁打ち」がもたらす効果

 

​最近、AIの使い方として「壁打ち」という言葉をよく耳にする。

球技の壁打ちのように、AIにあれこれと話しかけたり、会話のようなことをしてみたりする使い方だ。その辺の人にはちょっと聞きにくいことを聞いてみるのにも、AIはちょうどいいポジションにいる。

 

壁打ちについては、

​「うまいこと言うな」と思う。

​ただ、この壁打ちをしていて気づいたことがある。

それは、「声に出すこと」自体に、自分の中で確かな効果があるような気がする、ということ。

​AIから返ってくる出力(回答)の内容がどうこうというよりも、単に自分の口から声に出してみる。その行為自体が、私にとっては何かいい効果をもたらしている感覚がある。

 

​「声を出す」という行為の効能

​以前、どこかで「朗読が良いらしい」という話を読んだことがある。

文字を読み、どう声に出そうかなと考えながら、実際に声を発する。これによって、普段の生活の中で人と何かしらのやり取りをする際、すっと声が出やすくなるような効果があった記憶がある。

 

​AIに何かを質問しようとするときも、これに似ている。

どうせなら自分が得たい出力を得たいし、AIにとって分かりやすく、質問が通りやすいようにしたい。そうやって「目的の出力が得られるか」を考えながら声に出すこと。

​それ自体が、普段の生活において「声を発して誰かと何かを言い合う」といった場面に、何かしら役立っているような気がする。

そう考えると、AIとのやり取りと朗読は、どこか本質が近いのかもしれない。

 

​AIとの付き合い方、そして「のめり込み」

​AIに「出力(答え)」を重視するのか。

それとも、何かを「分析」してもらうことを重視するのか。

あるいは、あくまでAIは参考程度として、声に出すという「行為自体」を重視するのか。

​それによって、AIとの付き合い方や、のめり込みやすさみたいなものも変わってくるのかな、と感じている。

 

​例えば、自分が言ったことに対して、いつも同じように肯定してくれる出力を繰り返していると、なんとなく「エコーチェンバー」や「フィルターバブル」のようになっていく。

「自分の思いは正しいんだ」という気持ちが過剰に強化されたり、あるいは「自分の思いは正しいと思いたい時」にばかりAIを使うようになっていく。

​そういった使い方に傾いていくと、それはちょっと「依存」になっていくのかな、とも思う。

 

​結局は、使い方次第

​まあ、何にしても「使い方次第」だな、と思う。

​これはAIに限った話ではない。

その辺にあるハサミであったり、文房具であったり、細長い棒のようなものであったり……。

 

​世の中のあらゆる道具と同じように、AIもまた、使う側の人間次第だとは思う。

 

そんなこんな。

​「インターネットに書いてあった」から「AIが言っていた」へ

​「インターネットに書いてあった」から「AIが言っていた」へ

 

​職場で何かを決めようとするとき、最近上司がAIを情報源に挙げることが増えてきた。

​情報源に挙げるといっても、Google検索の上の方に出てくる要約モードのようなものではない。AIのアプリそのものに向き合って、そこから何かしら知りたい情報を拾ってくるような感じ。

 

​私自身は、情報のソースそのものの信用性を考えてしまう。

インターネットの界隈における情報というのは、まずは「信頼性がどれくらいあるのかな?」という部分が気になるタチだ。

​自分でもブログを書いていて思うことだけれど、ネットにある情報というのは、基本的にはどこの誰が好き勝手に何を書いても、その情報はしばらく残り続ける。その人がただ思ったことでしかない、という情報も多々ある。

 

試しにどこかしらのブログのアカウントを作成して「あああ」と記事へ打ち込んでみてほしい。

何が「あああ」かどうかはわからないけど、とりあえずそのひらがなをしばらく残り続ける。そんなこんなで誰でも何かしら?インターネット環境があればそういう文字を残せるということ。その文字に大きな意味があるかどうかはさておき。

 

​そんな中で、AIが拾ってきた情報がそこまで信用に足るものだろうか?

どうしても、そこが気になってしまう。

 

​「どこに書いてあったか」が見えなくなる危うさ​何かしら決定をする立場の人が「AIにこう書いてあった」と言うのを見ていると、「あ、そうなのね……」と何とも言えない気持ちになってしまう。

 

情報源とか、気にならないのかしら、と。

​1人で勝手に憂いてもしょうがないのだけれども。

 

​結局、これは今に始まったことではない。

何かを検索して出てきた結果をそんなに鵜呑みにしてもいいのだろうか、という疑問は何十年も前からあったはずだ。

 

​「検索したらこう書いてあった」

 

いわゆる、インターネットにこう書いてあった、というやつ。

​私はそもそも「インターネットに書いてあった」という言葉自体に、大きな信頼性をおいていない。インターネットの「どこに」書いてあったかが、すごく大事だと思う人間だからだ。

 

​例えばドメインが .go.jp だったとしたら、その辺の個人サイトよりは信頼性が高い。どこどこの研究機関なのか、それとも何かしらの会社なのか、あるいはSEO対策をバリバリに施した特化型の個人サイトなのか。

​それくらいの区別は、上に立つ人ならつけてほしいな、と思ってしまう。

 

​擬人化されたAIという「謎の信頼感」

​ところが、AI検索が世を謳歌するようになってから、その辺りはより曖昧というか、ブラックボックスというか、ファジーなものに包まれてしまった。

それでいて、出てくる結果だけは「もっともらしい文章」として現れる時代になったな、と思う。

​「インターネットに書いてあった」という言葉は、今や「AIが言っていた」という言葉に置き換わったのだろう。

 

​「インターネットに書いてあった」よりも、「AIが出力したものだ」「AIが言っていた」と、やや擬人化されたような。

同じ文章が出ているのだとしても、「AIが言っているんだから間違いないだろう」という、謎の信頼感に包まれている。そういうことなんだと思う。

 

​情報のソースが曖昧になってくると、今度は情報を発信する元の人たちが、発信する気を削がれていくのではないか。

そうなってくると、ますますインターネットの情報というのは、曖昧さが増していくような気がしている。

 

そんなこんな。