電車の網棚を信用してはいけないという自分への戒め
タイトル通り電車の網棚を信用してはいけない。
人は忘れる生き物であって忘れることができる生き物でもある。
記憶というものは時としていいかげんで、網棚に大事な物を置いた時ほど肝心な時に忘れてしまう。
なんなら私は網棚を「神棚」と言い間違える。
人間とはかくもいいかげんないきもの。
これは『網棚にものを置かない方が良いよ』という自分への戒め。
コントロール下から持ち物が遠ざかっていく儚さ
これは網棚に忘れ物をした人なら伝わりそう。
『なんで網棚のものをわすれたんだ...』と自身に問うても忘れ物は帰ってこず、なんならどんどん遠ざかるというどうしようもなさ。
これを儚いと言わず何と言おうか。
過去に私は網棚にモノを置いてひどい思いをした。
何とかモノはかえってきたけれど、こんな思いはもういやね。
そのため「そもそも置かない」ためにはどうするかを考えながら、脳内に考えを巡らせる。
脳内対策1
網棚は最初から存在しないものと設定する
この世界にはそもそも電車内に「網棚」は存在しないものと設定する。
そうすれば最初からものを置く場は無い。
手に持つ、あるいはそもそも置くような量の荷物量を避ける、自身の近くに置く等で対処する。意地でも対処する。
(書いていて思ったけれど「手に持つ」と「手荷物」って音が一緒...)
脳内対策2
網棚を使用するには使用権を買う必要があると設定する
つまりは有料ということ。
そもそも有料ならば網棚は使用しないのではないかそういう作戦。
あるいは今話題のサブスクリプションということにしておく。
駐車場と一緒で、置く権利を買っていなければそもそも使用できないという設定にしておく。
忘れるときは忘れる
置き忘れを防ぐには「置かないこと」が重要。
置かなければ置き忘れは発生しない。
忘れるのが怖ければおぼえる必要を排除しておく。
(要するに「置かない」)
『網棚にものを置くと、置いたことを忘れてロクなことにならない』という自身への戒めをここに残す。